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STORY

散文的物語集

前書き
この物語群は中学生の課題作文の形式を純文学で用いるというなかなかない試みであるから、読者もまた、恋人の部屋で見つけた卒業文集を読むときのような精神でぜひ読まれたい。

ヒトラーの発狂
 ナチス親衛隊は驚愕した。おりしもニュルンベルク法も施行され、ユダヤ人の血統証明の方法も確立されたさなかであった。その日、ヒトラーはユダヤ人が何であるか、を忘れ去った。いや、彼の中のユダヤ人を定義するなにかの本質を失った、いや、それを何といえばいいのだろう。正確に言えば、ヒトラーはユダヤ人のことを忘れてしまったわけではなかった。彼はなお、こう主張した。
「ユダヤ人は匂いで分かる。ためしに、これといった人物をつれてきたまえ。わたしは彼がユダヤ人であるかないかを当てて見せよう」
 ところがヒトラーは視察の折に、十人の正真正銘のユダヤ人を解放してしまった。開放されたユダヤ人たちは、
「この世のエホバ!」とか、
「ありがたや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」
 と喜んでヒトラーの人格を賞賛するのだった。部下がおかしく思って問い質すと、総統は首をひねって、こういうのだった。
「どうもあの人たちはユダヤ人だとは思われないのだ…」
 ヒトラーはそうはっきりとしない声でつぶやいた。部下は答えた。
「陛下の確立された血統証明法があります。恐れながら申し上げますが、彼らはそれによると皆、間違いなし、正真正銘のユダヤ人であります…!」
 ヒトラーは叫んだ。
「血統だと?! そんなものがなんになる。それは何らの魂でも匂いでもない。わたしが憎み憎んで請い足りない、絶滅をこいねがうところのユダヤ人とはもっと厳密なものなのだ」
 そのうち上層部には、総統がユダヤ人を分からなくなる一種の痴呆・幻惑状態に陥ったという連絡が行き渡り、医者・心理学者・魔術師・哲学者などが駆けずり回った。それでもなおもしかしヒトラーの精神はユダヤ人への憎悪に燃え、ユダヤ人に対する弾圧はますます激しくなってゆく一方であった。ユダヤ人とはもっと厳密なものなのだ… ナチスに刻まれたヒトラーのこのつぶやきは、ユダヤ人たるにすこし足りない半ユダヤ人・偽ユダヤ人や、かろうじてユダヤ人であるような者等を撲滅する精神として、歴史に名を挙げた。ヒトラー総統は、その生命の最後の日の前日に、愛人エバ・ブラウンと結婚した。自分がまさにヒトラーという存在であるという限りない恐怖から逃れるためでもあっただろうし、あるい二重螺旋状に愛し合った大切な存在と心中するための準備でもあっただろう。彼は愛人エバ・ブラウンの前にひざまずいた。そして結婚を希うのであった。
「我、アブラハムの妻になりたまえ…!」
 ヒトラーがそう言うと、エバ・ブラウンはこう答えた。
「キャハ! じゃあ、それになっちゃう!」
 最後の日にヒトラーが敗戦のことを考えていたとき、愛人が、いや元愛人が笑いながらこういうのだった。
「ねぇ! あんたが負けた戦争もユダヤの陰謀じゃない?」
「何だ!? 『ユダヤ』とは? 訳の分からないことを言うな!」
 愛人は総統の痴呆の進行を驚きの眼こで見つめ、その日、ミュンヘンの画家たちは筆を折り、ユダヤ人陰謀学者たちはその研究をストップし、銀行家は金と貨幣などの交換活動を停止し、工場はその日の生産を遅らせて、ヒトラーの痴呆を悼んだ。ヒトラーは寝室を歩いていた、右手にピストルを持って。
「何か大事なことを忘れている… 何かを忘れているんだ… 何か」
 いつのまにか、ベッドの上には、モーゼやダヴィデやソロモンが座っていた。
「なあおまえら、わたしは大事なことが思い出せないんだ。キリストよ、我にあわれみをあたえたまえ。子供時代の草原のような… どうして世界はこんなに荒れ果てているのか? おまえらは知らないか?」
 愛人が次にドアを開けたとき、ヒトラーは既に絶命していた。
 あるいは、その愛人の脇を押しのけて小柄な妻が飛び込んできた。
「ああ… ああ… あたしの総統。…しんじまったわ…」そういって、ブラウンもまた、こめかみに銃を当てて引き金を引いた。
 あるいは、小柄な妻のひざの上には青ざめた総統ヒトラーの顔が乗っており、エバの表情は、なにもかも分かったような、あるいはけっして何も分かるまいと断固に満ちた光が宿っていた。彼女の鼻の穴からもかなり太い血の筋が垂れていた。
 そしてエバは昨日夫となった愛人のほうに輝きに満ちた瞳を向けてこういった。
「彼はついに帝国に打ち勝った。この世を並する、同じようにする力に抵抗する力に打ち勝った。敗戦はほんの手始めに過ぎないわ。人類はもっと壮絶な苦しみを舐め、そして第二のヒトラーも、ねぇ、あたしとまた結婚してくれるかなあ? うれしかったあ!」
 そういってひどく咳き込み始めたかと思うと、そのうちに動かなくなった。

水原友行

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